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三十五歳


 あの日をはっきりと覚えている。シャッターを開けて見たあの光景を。

 五年前、私はドーナツショップをオープンした。野菜や果物の意外なトッピングを売りに、毎日多くのドーナツを並べた……のだが人は全く来なかった。

 資金が減ると不安に押しつぶされそうになる。私はとにかく店を続けたい一心で、割のいい配達員のアルバイトを始めた。午前中はアルバイトをして、昼間はドーナツショップ。夜は明日の仕込みと寝る間もなく働き続けた。

「もう、限界じゃないかな」

 あまりにうまくいかない私を見かねて彼氏がそう言った。自分でも薄々感じてはいたものの「限界」という言葉は絶対に言いたくない。なのになんでそんなに軽々しく言うのだろうか。私は全ての不満や怒りを彼氏にぶつけた。何時間もグチグチと。

 電話が鳴ったのはその翌日だった。どこから情報を聞きつけたのか私の店を取材したいのだという。「うちで大丈夫ですか?」。自信なさげに返答すると「もちろん」と言われた。数カ月後、私の店はグルメ雑誌で「日本でいちばん斬新なドーナツ屋」と紹介された。

「よく、こんなにも暇な店を紹介してくれたな」

 私は笑いながらペラペラとページをめくる。でもすぐにそれが他人事ではないと気づいた。

 次の日、店の前には長い行列ができていた。その次の日もそのまた次の日も。いくらドーナツを用意してもオープンと同時に売り切れてしまう。

「これ、いつまで続くのだろう」

 うれしい反面、人気なんていつかは終わると思っていたんだけど。

 あれから四年。いまだに店の前には行列ができている。あの頃よりさらに忙しくなり、ときどき自分が何をしているかさえわからなくなるときがある。本当にいつまで続くのだろう。私はどこへ向かっているのだろう。

 家に帰ると母から電話があった。店を紹介したテレビを見たのだという。

「人気みたいで、安心した」

「ありがとう。でも、ちょっと疲れちゃった」

「そんなこと言うもんじゃないよ。ありがたいじゃない。あっ、そういえばあなたが小さいとき夢はドーナツ屋さんって言ってたわよね」

「うそ。そんなこと覚えてないし。っていうか今頃になって言うこと?」

 私は母にグチりながら、あの頃を想像して少しだけ涙をこぼした。







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