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三十八歳


 珈琲の焙煎講座に出掛けた。講師は最近雑誌でよく見る珈琲屋の店主。いつか私はその人が淹れる珈琲が飲みたいと思っていた。

 当日、ぞろぞろと参加者が集まり、いつの間にか満席になる。登場した店主は雑誌で見るより断然渋くて一瞬で心を掴まれた。講座は知らないことばかりで新鮮な体験だったし、最後に店主が淹れる珈琲は格別だった。

「私ですか? 普通の会社員です」

 講座が終わると同じテーブルで自己紹介が始まった。花屋、雑貨屋、編集者と、私以外はみんな手に職を持つ、いわゆる好きなことを仕事にする人たちだった。私はそういうキラキラした人種がいない世界で育ったから、そうやって楽しそうに仕事を語る人たちに強い劣等感があった。

「俺、仕事辞めてお店やろうと思って。だから手伝ってくれない?」

 もうすぐ結婚する彼が突然言い出した。

「俺が料理作って奈津が珈琲淹れるってよくない?」

 彼は週末になると仕事のストレスを解消するかのように台所にこもり、凝った料理を友人に振る舞っていた。でも、そんな簡単にお店なんてできるわけがない。それって単に会社員から逃げたいだけだと思うし。

 何度も大反対したけど結局彼の意思は固く、彼ひとりで店を始めた。絶対に失敗する。そう思っていたけど数カ月後に店は軌道に乗り、会社員時代とは別人のように生き生きとした彼がそこにいた。

「奈津もそろそろ手伝ってよ。前に珈琲を淹れてみたいって言ってたじゃん」

「だから、私はそういう、なんていうのかな、自営業の人って別世界の人だし、センスがいい人がやるわけでしょ。私なんか無理だよ」

「センス? でも俺、そんなのないよ」

 自信に満ちあふれた表情でぐいぐい圧をかけてくる。結局、私は彼に根負けした、というより彼がうらやましくなり、ずっと勤めるはずだった会社を辞めた。場違いな世界に向かうのは不安で怖くて戻りたくもなったけど。

 あれから数年。あの店は立ちゆかなくなり閉店したけど、そのあと私はひとりで珈琲スタンドを開いた。で、今、目の前のカウンターに夫が座っている。

「あんなに消極的だったのに、ひとりでお店やるなんてな」

「まあ、そうだけど」

 無理だと思っていた “あっち側の世界”のハードルは、跳んでみると全然高くないことに私は気付いてしまった。







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