二十九歳
「おお、久しぶり!」
「えっ、ああ、本当ごめんなさい。どなたでしたっけ」
会社のエレベーターで、男に声を掛けられた。
「俺だよ、菊池。大学でサークル一緒の」
「ええと、私、大学行ってないんですけど」
「ああ、そうなの? まあいいや」
「いいやって」
「それはそうと今日ご飯行かない?」
それただのナンパですけど。呆れ顔の私は、でも、そんな彼のつじつまの合わなさが妙に面白くてフッと笑ってしまった。
「ねえ、聞いてる? だからご飯行かないのかって」
「まあ・・いいですよ」
興味本位で私はその提案を受け入れた。彼は少し前から私のことが気になっていたようで、このタイミングを狙っていたのだとあとから知った。
それから一カ月後、私は彼と一緒に暮らし始めた。
ちょうどその頃、私は出版業界の仕事に就きながらも、“好きなものを仕事にする”大変さを実感していた。売れる企画を求められる日々は、あんなにも好きだった本を一分たりとも見たくもないものへと追いやった。
「もう、限界に近いかも」
仕事の意欲もほとほとなくなり、よく現実逃避した。遠い国で気持ちのよい朝日を浴びながら現地の朝食を食べて・・飛行機が怖いから行けもしないのに、決まってそんなことばかり考えていた。
「一回、リセットしようと思って」
もう日が変わる頃、帰宅した彼にそう相談した。
「今までは次の仕事を決めてから辞めてたんだけどね。少しは貯金もあるから今回はスパッと辞めてどっか旅でもしたいなって」
「ふーん。旅ってどこに?」
「それは、まだ決めてないけど」
「じゃあ結婚する? 環境を変えたいんなら転職も旅も同じようなもんだろ」
彼はいつだって唐突で強引で、でも、なぜだか憎めない。
「まあ・・いいですよ」 私はあのときと同じようにフッと笑いながら彼の提案を受け入れた。
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